【第二次世界大戦】背景や経過、戦後処理などわかりやすく解説

Introduction:第二次世界大戦とは?

第二次世界大戦(World War II)とは、

1939〜1945年に枢軸国と連合国に分かれた繰り広げた世界戦争

です。

第二次世界大戦は、ドイツ・イタリア・日本枢軸国陣営アメリカ・イギリス・フランス・中国・ソ連などの連合国陣営に分かれて行われました、

第二次世界大戦は、国際関係史における非常に重要な出来事であり、現在の国際秩序・システムに大きく影響を与えています。

本記事では、第二次世界大戦の背景や経過、影響などわかりやすく解説していきます。

【第二次世界大戦】 要点
・背景:ドイツへの厳しい制裁、世界恐慌、ナチスの台頭、ヴェルサイユ体制の崩壊、宥和政策
・経過:ドイツの侵略、太平洋戦争、連合国の反撃
・国際秩序の変化:国際連合の創設、東西冷戦の開始、核兵器の登場、アジア諸国の独立

Part 1:戦争の背景

第二次世界大戦は、第一次世界大戦の終戦から20年で勃発しました。

2度目の世界大戦が起きてしまったのは、第一次世界大戦の戦後処理に原因があります。

第一次世界大戦についてまとめた記事は以下のリンクからご覧いただけます。

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第一次世界大戦

1−1 ドイツへの厳しい制裁

第一次世界大戦で敗北したドイツは、過剰な制裁や制限を強いられました。

特に、ドイツ領の再編と没収軍備の制限多額の賠償金支払命令の3つは、ドイツを苦しめました。

特に、多額の賠償金を課せられたことによってドイツ経済は大きく疲弊しました。

賠償金を支払うために、ドイツ国内ではハイパーインフレが発生し、経済は混乱しました。

第一次世界大戦の戦勝国は、敗戦国に軍事力の制限や賠償金といった厳しい制裁を加えることで再び世界大戦が起こることを防ごうとしました。

しかし、厳しすぎる制裁・制限によってドイツに不満が蓄積し、再び世界大戦が起こる原因となってしまいました。

1−2 世界恐慌

1929年にニューヨーク株式市場の株価大暴落によって、世界恐慌が発生しました。

アメリカで起こった経済・金融危機は世界中に拡大し、世界経済は大不況に陥りました。

アメリカはニューディール政策という公共事業による雇用創出といった政策によって対処し、ヨーロッパ諸国は、保護主義に基づいたブロック経済を実施しました。

イギリスやフランスは所有していた植民地との貿易によって経済を維持していましたが、植民地を没収されていたドイツは、経済的に大打撃を受けました。

賠償金によるハイパーインフレに加えて、世界恐慌によってドイツ経済は混乱を極めました。

1−3 ナチスの台頭

第一次世界大戦の厳しい制裁や世界恐慌による経済への打撃といった出来事が重なったことで、ドイツ国民には不満が蓄積していきました。

ブロック経済という保護主義に走ったり、賠償金を押し付けたりしたイギリスやフランスなどの諸外国に対する嫌悪感や不満が高まりました。

このように蓄積された国民の不満は、ヒトラー率いるナチス(国家社会主義ドイツ労働者党)の台頭を許しました。

ナチス

ナチス

経済危機や大量失業の中、魅力的な演説をするヒトラー率いるナチスは徐々に勢力を伸ばしていきました。

そして、ヒトラーは首相にまで上り詰め、司法・立法・行政権や他の政党を排除していきました。

ヒトラーは独裁的な権力を手に入れ、ドイツは全体主義へと変化しました。

1−4 国際連盟の脱退とヴェルサイユ体制の崩壊

ヴェルサイユ体制とは、

第一次世界大戦の講和条約であるヴェルサイユ条約によって作られた国際体制

です。

具体的には、国際連盟やドイツの軍備制限、領土再編などがあります。

1933年にナチスドイツは、国際連盟から脱退し、禁止されていた再軍備化を開始しました。

1936年には、ヴェルサイユ条約ロカルノ条約で定められた非武装地帯である「ラインラント」に軍隊を進駐させ、2つの条約を破棄しました。

また、日本・イタリアも国際連盟を脱退し、独伊三国防共協定を結びました。

そして、枢軸国陣営ができたことでヴェルサイユ体制は崩壊しました。

再軍備をしたドイツは、ヴェルサイユ条約で没収された領土を獲得することを目指し始めます。

1−5 ミュンヘン会談と宥和政策

ミュンヘン会談とは、

1938年にイギリス、フランス、イタリア、ドイツの首脳がスデーテン地方の帰属問題について話し合った会議

です。

スデーテン地方はチェコの北部に位置し、多くのドイツ人が住んでいたことから、ヒトラーは併合を要求しました。

会談の結果、イギリスとフランスがドイツの要求を認めたため、ドイツに割譲されることになりました。

イギリスのチェンバレン首相が、このような決断をしたのは「宥和政策」に基づいていたためでした。

宥和政策とは、

ドイツの領土拡大をある程度許容することで、平和を維持しようとする外交姿勢

です。

チェンバレンは、ドイツの領土拡大を強く押さえ込もうとすることで、再び世界大戦が起こることを恐れ、宥和政策を取りました。

また、当時のイギリスにとっての最大の敵はソ連であり、ドイツの存在が共産主義の拡大を阻止していると言われました。

ドイツの要求を飲んだイギリスの見返りは、ドイツの外交行動を事前にイギリスに相談するという約束でした。

しかし、1939年にヒトラーはミュンヘン協定を破棄してチェコスロヴァキアの解体に取り掛かると同時に、ポーランド侵攻への意欲を示しました。

また、ミュンヘン会談で英仏がドイツの要求を飲んだことに不満を持っていたソ連のスターリンは、ヒトラーと接近し、「独ソ不可侵条約」を締結しました。

このような背景から、ドイツは開戦に踏み切ります。

Part 2:戦争の経過

ドイツやイギリス、フランス、ソ連などを中心としたヨーロッパを主戦場として行われたものと日本やアメリカを中心にアジアで行われた太平洋戦争を総称して第二次世界大戦と言います。

2−1 ドイツの侵略

第二次世界大戦は、ドイツのポーランド侵攻によって開戦します。

ドイツは、ヴェルサイユ条約によって没収された「ダンツィヒ」という都市を奪還したいと思っていました。

この都市は、元々ドイツの貿易港として栄えた場所であり、ドイツが経済的に成長するために重要な拠点であると言えます。

独ソ不可侵条約を締結したドイツは、1939年にポーランドへ侵攻し、第二次世界大戦が開戦しました。

同時にソ連もポーランドに攻め入り、ポーランドは分割されました。

このようなドイツの侵略に対して、イギリスとフランスは宣戦布告を行いましたが、すぐに軍隊を送らず、「奇妙な戦争」と言われる膠着状態が続きました。

ポーランドを獲得したドイツは、1940年デンマーク・ノルウェー・オランダ・ベルギーへと侵攻し占領しました。

この時期に、ファシスト党ムッソリーニが主導でイタリアが枢軸国陣営として参戦しました。

ムッソリーニ

ムッソリーニ

そして、1940年の6月、ドイツ軍はフランスを降伏させることに成功しましたが、イギリス本土への上陸までは出来ませんでした。

同年9月には日本・ドイツ・イタリアで日独伊三国同盟を結成し、アメリカを共通の敵として決定しました。

このような枢軸国の強大化を受けたアメリカは、「武器貸与法」でイギリスの支援を開始し、アメリカの参戦となりました。

1941年、ドイツがソ連と同じスラヴ系民族諸国であるバルカン半島のユーゴスラヴィアやギリシアに侵攻したことで、ソ連との対立が始まりました。

そして、ドイツは独ソ不可侵条約を破ってソ連に侵攻し、独ソ戦が始まりました。

1941年の8月には、アメリカのルーズベルト大統領とイギリスのチャーチル首相大西洋憲章を発表し、枢軸国との戦争の目的や戦後の国際協調について決定しました。

2−2 太平洋戦争

1940年、日本はアジア諸国が西洋諸国の植民地から独立し、共存することを目指す「大東亜共栄圏」を打ち出しましが、実際は日本の軍国主義・帝国主義を正当化するための口実に過ぎませんでした。

日本は、アメリカとの戦争に備えるために、ソ連と日ソ中立条約を締結し、背後からの脅威を払拭しました。

1941年12月、日本軍の「真珠湾攻撃」によって太平洋戦争が開戦しました。

真珠湾攻撃

真珠湾攻撃

ヨーロッパにおけるアメリカは、イギリスやソ連に武器や物資を支援する事にとどまっていましたが、真珠湾攻撃によって正式に参戦となりました。

アメリカの参戦によって、主戦場がヨーロッパから世界に拡大しました。

これを受けて、アメリカやイギリスを中心として連合国共同宣言を発表し、連合国が結成されました。

日本軍はアジア諸国に侵攻し、香港、マレー半島、マニラ、シンガポール・インドネシア・ビルマなどを占領しました。

序盤は優勢だった日本でしたが、「ミッドウェー海戦」でアメリカに敗北したことで、徐々に劣勢になっていきました。

ミッドウェー海戦

ミッドウェー海戦

その後、アメリカ軍のガダルカナル島上陸サイパン陥落東京大空襲沖縄戦などで戦局は悪化し、広島・長崎への原子爆弾の投下で決定的となり、1945年8月に日本軍は無条件降伏を認める「ポツダム宣言」を受諾しました。

2−3 戦局の変化と終戦

1942年、ドイツは、ソ連に「スターリングラードの戦い」で敗北したことで、劣勢になっていきました。

スターリングラードの戦い

スターリングラードの戦い

劣勢となった枢軸国陣営は、1943年にはイタリアが降伏しました。

1944年には、アメリカとイギリスがノルマンディー上陸作成を行い、ドイツ軍を後退させる事に成功しました。

劣勢になったドイツはベルリンまで後退し、ソ連が包囲しました。

地下壕に篭って抵抗したドイツ軍でしたが、ヒトラーが自殺したことでベルリンが陥落し、1945年5月にドイツは無条件降伏をしました。

ヨーロッパで勝利を重ねていたドイツでしたが、ソ連とアメリカという大国を敵に回したことで敗北となりました。

枢軸国の無条件降伏によって、第二次世界大戦は終戦を迎えました。

Part 3:戦後の国際秩序

第二次世界大戦は、爆撃などによる直接の死亡だけでなく、飢餓や病気なども含めて、死者約5000万〜8000万人もの犠牲を伴いました。

3−1 ヤルタ会談と講和条約

枢軸国の無条件降伏で終戦を迎えた第二次世界大戦でしたが、大戦の末期に米英ソで戦後処理についてのヤルタ会談が開かれました。

ヤルタ会談

ヤルタ会談

ヤルタ会談は、イギリス首相のチャーチル、アメリカ大統領のルーズベルト、ソ連首相スターリンが参加し、ヤルタ協定を結びました。

ヤルタ協定の内容は以下の通りです。

ヤルタ会談

・国際連合の設立:サンフランシスコ国際会議の開催と安全保障理事会での拒否権を認める

・ポーランド問題:ポーランドの国境や主権の回復を目指す

・ドイツの戦後処理:米・英・ソ・仏による分割、賠償金、軍縮、戦犯の処罰

・ソ連の太平洋戦争参戦

ヤルタ会談によって国際連合が出来上がるとともに、米ソの二極構造を前提とした国際秩序が作られ、「ヤルタ体制」と呼ばれました。

ヤルタ体制は、冷戦が終結する「マルタ会談」まで継続したため、「ヤルタからマルタへ」と言われました。

また、終戦後には戦後処理のためにヨーロッパではパリ講和条約、日米ではサンフランシスコ平和条約が締結されました。

戦争による賠償や戦争によって獲得した領土の処理、日本の主権回復が認められました。

3−2 第二次世界大戦後の国際関係

第二次世界大戦の終戦後、国際関係には様々な変化が起きました。

主要なものを挙げると以下の通りになります。

戦後の国際秩序

・国際連合の設立

・核兵器の登場

・米ソの二極化と冷戦の開始

・アジア諸国の独立

特に、連合国陣営で主要国となったアメリカとソ連が力をつけ、イデオロギーの対立から冷戦へと発展しました。

冷戦は、終戦から1989年まで継続し、戦後の国際秩序を作り上げました。

これには、核兵器の登場による核抑止論が背景にあり、東西で緊張が高まりました。

第一次世界大戦で創設された国際連盟の失敗から作られた国際連合は、現在までも継続する国際機構となっています。

Part 4:おすすめの書籍

もっと「第二次世界大戦」を学びたいという人は、以下の書籍がおすすめです。

Part 5:まとめ

いかがでしたか?

第二次世界大戦」をまとめると、

【第二次世界大戦】 要点
・背景:ドイツへの厳しい制裁、世界恐慌、ナチスの台頭、ヴェルサイユ体制の崩壊、宥和政策
・経過:ドイツの侵略、太平洋戦争、連合国の反撃
・国際秩序の変化:国際連合の創設、東西冷戦の開始、核兵器の登場、アジア諸国の独立

以上です。

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最後までご覧いただきありがとうございました。

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