ロシア革命(Russian Revolution)とは、
です。
一般的に、1917年に起きた二月革命と十月革命をまとめてロシア革命と言いますが、広義には、1905年に起きたロシア第一革命を含めます。
二月革命・十月革命は、当時のロシアで採用されていたユリウス歴に基づいており、現在採用されているグレゴリオ歴では「三月革命」、「十一月革命」となります。
本記事では、ロシア第一革命を含めたロシア革命について解説していきます。
Part 1:1905年 ロシア第一革命
ロシア第一革命は、民衆蜂起によって始まりました。
1−1 きっかけ:「血の日曜日事件」
当時のロシアの政治体制は専制政治で、日露戦争の真っ最中でした。
戦時中の労働者は、政府に対して不満が蓄積していました。
そこで、司祭の「ガポン」が中心となって、労働条件の改善や議会の開催、戦争の中止、専制政治の解体などを政府に求めました。
ガポン
そのような労働者の要求に対して、ロシア軍が発泡して多くの人々が殺傷された「血の日曜日事件」が起こりました。
このような政府の対応に激怒した市民が各地で蜂起しました。
1−2 革命勃発
「血の日曜日事件」によって波及した革命の波で、ロシア国内ではストライキなどが起こりました。
また、ロシア水兵による「戦艦ポチョムキンの反乱」が起こるなど、革命は激化しました。
この事態を受けたウィッテ首相は、国会の開設と国民の政治的自由を認めるなどして鎮静化を図りました。
ウィッテ首相
そして、1906年には憲法が制定され、国民の要求が叶ったかと思われましたが、ウィッテが辞任した後に首相となったストルイピンは革命を弾圧し、再び専制政治へと戻りました。
最初は順調だった第一次ロシア革命でしたが、ストルイピンに沈静化され、失敗に終わりました。
ストルイピン
Part 2:1917年 二月革命
第一次ロシア革命から約10年が経過したロシアでは、再び革命が起きました。
2−1 背景:第一次世界大戦による疲弊
二月革命が起きた背景に、第一次世界大戦による疲弊が挙げられます。
1914年に勃発した第一次世界大戦は、1918年に終戦するまで4年間も続きました。
第一次世界大戦についてまとめた記事は以下のリンクからご覧いただけます。
Introduction:第一次世界大戦とは? 第一次世界大戦とは、 1914〜1918年にかけて、同盟国と協商国が戦った初の世界戦争 です。 第一次世界大戦は、ヨーロッパを主戦場として繰り広げられ、多くの犠牲を払いました。 […]
ロシアは第一次世界大戦で、ドイツ軍に多くの領土を奪われました。
そして食料・物資の不足や物価上昇が起き、国民の生活は苦しくなっていきました。
不満が溜まっていた国民は、1916年からストライキを起こして政府に様々な要求をしていました。
2−2 革命勃発から二重権力へ
1917年には、国際婦人デーに合わせて女性労働者を中心として、食糧不足に対する「パンよこせデモ」が全国に波及し、ゼネストになりました。
国民は、食糧不足や物価上昇といった経済的な問題に対する要求だけでなく、「戦争反対」と「専制政治妥当」というスローガンを掲げてデモを行いました。
そして、ロシア軍は国民側に味方し、「ソヴィエト」を結成しました。
ソヴィエトは、労働者と兵士の代表が集結する機関であり、ロシア語で「会議」を意味します。
軍隊が国民側についたことで政府は革命を抑えることができず、皇帝のニコライ二世が退位し、「ツァーリズム」と呼ばれる専制政治体制と「ロマノフ朝」と呼ばれる帝政が終了しました。
その代わりとして、ブルジョワ自由主義政党が議会制による臨時政府が樹立しましたが、戦争を継続する方針を取っていたことから労働者と対立し、労働者たちは独自にソヴィエトを結成しました。
このように、議会と労働者のソヴィエト権力が同時に存在する「二重権力」の状態になりました。
二重権力の状態は、同年の十月革命へと繋がっていきます。
Part 3:1917年 十月革命
一度は収まったと思われた革命でしたが、数ヶ月後に再び激化していきます。
3−1 七月蜂起
二月革命が起こった同年の7月、社会革命党のケレンスキーが首相に就任しました。
ケレンスキー
労働者が戦争の中止を求める中、ケレンスキーがドイツへの攻撃を強化したことで、ストライキが起こりました。
ボリシェヴィキ(ロシア社会民主労働党の一派)が主導した大規模なデモでは、臨時政府と市民側で武力衝突が起きました。
ボリシェヴィキの指導者の多くは逮捕され、その一人であるウラジミール・レーニンは、他国に亡命しました。
ちなみに、ポリシェヴィキは後の共産党です。
レーニン
このような一連の暴動を七月蜂起と言います。
この七月蜂起をきっかけに、十月革命へと繋がっていきます。
3−2 ボリシェヴィキと社会主義
指導者の逮捕によって勢いを削がれたボリシェヴィキでしたが、トロツキーらを幹部として、レーニンが密かに再建しました。
トロツキー
ケレンスキーと対立するボリシェヴィキは、国民からの支持を集めて武装蜂起に乗り出します。
10月、レーニンはトロツキーを議長とする軍事革命委員会を結成し、政府がボリシェヴィキ派を弾圧したことを口実に、政府の宮殿を襲撃しました。
ちなみに、首相のケレンスキーは、女装をして襲撃から逃れたと言われています。
その後、全ロシア=ソヴィエト会議が開催され、人民委員会議という新政府を発足させ、レーニンがトップになりました。
この政権はソヴィエト政権と呼ばれ、世界初の社会主義政権となり、社会主義国家に向けて様々な体制を整備していきました。
これを社会主義革命と呼びます。
そして、共和制体制が革命によって打倒され、社会主義国家へと移行したことを十月革命と言います。
Part 4:おすすめの書籍
もっと「ロシア革命」を学びたいという人は、以下の書籍がおすすめです。
Part 5:まとめ
いかがでしたか?
「ロシア革命」をまとめると、
以上です。
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最後までご覧いただきありがとうございました。