ビスマルク体制とは、
です。
ビスマルク体制は、19世紀後半のヨーロッパ国際関係を特徴付ける重要な体制です。
ドイツ帝国の宰相であったビスマルクが行った外交によって、ヨーロッパの秩序が形成されました。
本記事では、ビスマルク体制の背景と特徴を解説していきます。
Part 1 背景:3つの対立
当時のヨーロッパは、3つの対立が存在していました。
1つ目に、ドイツvsフランスです。
1870年にプロイセン王国とフランスによる普仏戦争が勃発し、プロイセン王国が勝利を収めました。
その後、プロイセンはドイツとなりましたが、フランスとの関係は悪化したままでした。
2つ目に、ロシアvsオーストリアです。
ロシアとオーストリアは、バルカン半島の進出を巡って対立をしていました。
3つ目に、イタリアvsオーストリアです。
イタリアとオーストリアは、未回収のイタリアの領土を巡って対立をしていました。
3つの対立
ドイツvsフランス
ロシアvsオーストリア
イタリアvsオーストリア
ビスマルクは、これらの対立を利用することで、対立していたフランスを孤立させるための外交を展開しました。
これが、ビスマルク体制の背景です。
Part 2:ビスマルク体制
ビスマルク体制は、フランスを孤立させるためにビスマルクが展開した外交・体制です。
2−1 三帝同盟から新三帝同盟へ
フランスと対立していたドイツは、ロシアとオーストリアがフランスと同盟を組むことによる挟撃を恐れていました。
そこでドイツは、いち早くロシア・オーストリアと同盟を結ぶことによって、フランスとの挟撃を回避するとともに、フランスの孤立を促進することを狙いました。
ドイツは、バルカン半島を巡るロシアとオーストリアの対立を仲介するという名目で、二国と同盟を結びました。
このドイツ・ロシア・オーストリアの同盟を「三帝同盟」と言います。
ビスマルク主催の「ベルリン会議」にて、バルカン半島を巡るロシアとオーストリアの対立についてドイツが仲介をして協議が行われました。
しかし、ドイツがオーストリアに有利な条件で仲介をしたことに対してロシアが反発し、三帝同盟は崩壊しました。
ロシアが抜けたことによって、ドイツは、オーストリアと独墺同盟を結びました。
独墺同盟は、ロシアがオーストリアを攻撃した場合に援助・参戦するという軍事同盟です。
フランスとの挟撃を避けたいドイツは、独墺同盟によってロシアに圧力をかけることでもう一度同盟を結ぶように迫ります。
ドイツ・オーストリアとの戦争を回避したかったロシアは同盟を認め、「新三帝同盟(三帝協商)」が締結されました。
このように、ドイツはロシアとオーストリアと同盟を結び、フランスとの挟撃の脅威を回避することに成功しました。
2−2 三国同盟
フランスを孤立させるため、ドイツはイタリアとの同盟に着手します。
同時のイタリアは、アフリカのチュニジアを植民地するためにフランスと対立していました。
そこでドイツは、イタリアは未回収の領土を巡るオーストリアとの対立を仲介する名目で、二国と同盟を結びました。
このドイツ・イタリア・オーストリアの同盟を「三国同盟」と言います。
こうして、新三帝同盟と三国同盟によってフランスの孤立を進めて行ったドイツでしたが、ロシアとオーストリアの関係が悪化したことによって、新三帝同盟が崩壊してしまいました。
その結果、ロシアが同盟をから抜け、再びドイツとオーストリアのみの同盟関係に戻ります。
しかし、このままロシアがフランスと同盟を結ぶ危険性を放置しておけないドイツは、ロシアと「再保障条約」を結びます。
オーストリアと同盟を維持しているドイツは、オーストリアがロシアと戦争をする場合、オーストリアに味方をしなければなりません。
しかしドイツは、「再保障条約」という秘密条約をロシアと結び、ロシア・オーストリアが戦争をした場合でも中立であると約束しました。
ちなみにイギリスは、「光栄ある孤立」と呼ばれ、どの国とも同盟を結ばないという姿勢をとっていました。
こうしてロシアとの関係をなんとか維持したドイツは、フランスを孤立させることに成功します。
このように、ドイツ宰相ビスマルクが展開した外交・体制をビスマルク体制と言います。
Part 3:おすすめの書籍
もっと「ビスマルク体制」を学びたいという人は、以下の書籍がおすすめです。
Part 4:まとめ
いかがでしたか?
「ビスマルク体制」をまとめると、
以上です。
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最後までご覧いただきありがとうございました。