クリミア戦争とは、
です。
クリミア戦争は、ウィーン体制の崩壊からヨーロッパの秩序を再編した戦争であり、国際関係史においても重要な転機です。
本記事では、クリミア戦争の背景や経過、パリ条約について解説していきます。
Part 1:戦争の背景
クリミア戦争は、ロシアが南下政策を行って、オスマン帝国に宣戦したことから始まります。
勢力拡大を狙うロシアは、オスマン帝国に向けて南下政策を行いました。
それを警戒したフランスは、オスマン帝国内にあるイエルサレムの聖地管理権を要求し、オスマン帝国はそれを認めました。
それを知ったロシアは、「ギリシア正教徒の保護」を名目に、オスマン帝国に同盟を申し込みました。
しかし、オスマン帝国はロシアの申し出を拒否し、ロシアは宣戦布告をしました。
こうしてクリミア戦争は始まりますが、「ギリシア正教徒の保護」というのは建前であると言えます。
当時のヨーロッパは、イギリス・フランス・ロシアの三国が東方への勢力拡大を狙って覇権争いをしていました。
このような緊張状態が弾けたことによって、クリミア戦争が勃発したと言えます。
つまり、ウィーン体制崩壊によるヨーロッパの覇権争いが、「ギリシア正教徒の保護」を口実として激化したと言えます。
このように、オスマン帝国・支配地域を巡る外交問題を「東方問題」と言います。
Part 2:戦争の経過
オスマン帝国に同盟を拒否されたロシアは宣戦布告を行いました。
2−1 開戦:バルカン半島への進軍
宣戦布告をしたロシアは、バルカン半島へと軍を進めました。
装備が充実していたロシア軍は、オスマン帝国軍よりも戦力の面で勝っていました。
勝利しながら南下するロシア軍に加え、オスマン帝国と対立していたギリシャやブルガリアの勢力が攻撃を開始しました。
そのような状況でオスマン帝国は劣勢になりましたが、イギリスとフランスの支援によって徐々に押し返し、戦局は拮抗しました。
2−2 シノープの海戦と英仏の参戦
膠着していた戦線でしたが、シノープの海戦によって大きく変化しました。
シノープの海戦
オスマン帝国を支援していたイギリスとフランスは、本格的に参戦するつもりはありませんでした。
しかし、ロシア海軍がオスマン帝国の軍港シノープを急襲した「シノープの海戦」が起こりました。
これは、ロシア軍による一方的な攻撃であり、「シノープの虐殺」と報道されたことから、ロシア強硬論が強まりました。
そして、イギリスとフランスはオスマン帝国と同盟を結んでロシアに宣戦布告を行いました。
同盟軍は、地理や天候に悩まされたり、現地人からの奇襲によって苦戦を強いられました。
しかし、ロシア軍も指揮の低下によってアルマの戦いで敗北し、同盟軍をクリミアの都市であるセバストポリへ進軍を許してしまいました。
そして、サルデーニャ王国が同盟軍に加わって、1854年に「セバストポリの戦い」で同盟軍が勝利しました。
セバストポリの戦い
勝利した同盟軍でしたが、戦争による財政の悪化によってイギリス国内で支持率を失った内閣が総辞職するという混乱が起きました。
フランスでも戦争終結の世論が高まり、ロシアも戦争継続が困難であると判断しました。
その結果、パリ条約の締結によって講和が成立したことで、クリミア戦争は終戦となりました。
クリミア戦争での死者は、78万5000人という大規模なものになりました。
Part 3:パリ条約
パリ条約
クリミア戦争は、オーストリア皇帝とプロイセン国王立合いのもと、パリ講和会議でパリ条約が結ばれたことで講和が成立しました。
パリ講和会議には、戦勝国のイギリス、フランス、プロイセン、オーストリア、サルデーニャ、オスマン帝国と敗戦国であるロシアが参加しました。
パリ条約の内容は以下の通りです。
パリ条約
南下政策の阻止
オスマン帝国(トルコ)の領土尊重
ドナウ川自由航行の原則
ロシアの領土割譲
パリ条約は、ウィーン体制崩壊からヨーロッパの再編における重要な意味を持っていると言えます。
そして、東方問題におけるロシアの巨大化を阻止するために南下政策を阻止したという意味も持っています。
ナポレオン戦争・ウィーン体制についてまとめた記事は以下のリンクからご覧いただけます。
Introduction:ナポレオン戦争とは? ナポレオン戦争(Napoleonic Wars)とは、 1796〜1815年にナポレオン・ボナパルトによって繰り広げられた一連の戦争 です。 ナポレオン戦争は、フランス革命と並んで[…]
Part 4:おすすめの書籍
もっと「クリミア戦争」を学びたいという人は、以下の書籍がおすすめです。
Part 5:まとめ
いかがでしたか?
「クリミア戦争」をまとめると、
以上です。
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最後までご覧いただきありがとうございました。