【1848年革命】革命の経緯や各国の状況をわかりやすく解説

Introduction:1848年革命とは?

1848年革命とは、

1848〜1849年にかけてヨーロッパで起きた一連の革命

です。

1848年革命は、ナポレオン戦争後のヨーロッパ秩序の安定のために作られたウィーン体制の崩壊を招きました。

ナポレオン戦争・ウィーン体制についてまとめた記事は以下のリンクからご覧いただけます。

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ナポレオン戦争

本記事では、ヨーロッパ各国における1848年革命の経過を解説していきます。

いて解説していきます。

【1848年革命】 要点
・二月革命(フランス):普通選挙の実施を拒否されたことに対して、市民が王政を終わらせた革命
・三月革命(オーストリア・プロイセン):二月革命が波及した自由主義を掲げる革命
・諸国民の春:二月革命・三月革命でウィーン体制が崩壊したことによって、ヨーロッパ各地で抑圧されていた民族が春に運動を開始したこと
・革命の波及:イタリア・ハンガリー・ボヘミア

Part 1:ヨーロッパ諸国の革命

1848年革命は、フランスの二月革命・ドイツの三月革命から始まり、ヨーロッパに波及していき、「諸国民の春」と呼ばれました。

1−1 二月革命:フランス

二月革命とは、

1848年のフランスで、普通選挙の実施を拒否されたことに対して、市民が王政を終わらせた革命

です。

二月革命

二月革命

当時のフランスでは、産業革命によって中産階級(ブルジョワジー)賃金労働者(プロレタリアート)が生まれ、格差が広がりました。

そして、財産による制限選挙が行われており、一般市民は選挙権を持っていませんでした。

それに対して市民は、普通選挙を求める運動を展開しましたが、政府はその運動を取り締まりました。

政府の弾圧に怒った市民・労働者は、王のルイ・フィリップを退位させ、王政を廃止しました。

ルイ・フィリップ

ルイ・フィリップ

そして、共和制を宣言し、臨時政府が樹立しました。

このように、選挙権を巡って、産業革命によるブルジョワジーvsプロレタリアートという階級の対立が激化したのが二月革命です。

二月革命は、ドイツ・ウィーンに波及し、三月革命を勃発させました。

そして、ヨーロッパ全体へと拡大し、1848年革命を引き起こしました。

1−2 三月革命:オーストリア・プロイセン

三月革命とは、

フランス二月革命が波及してオーストリア・プロイセンで起こった、自由主義を掲げる革命

です。

フランス起きた二月革命がドイツの諸邦に波及し、各地で民衆が蜂起しました。

民衆は、自由主義内閣や出版の自由を求めてデモを行ったり、領主の城を襲ったりしました。

特に、オーストリアではウィーン三月革命、プロイセンではベルリン三月革命が勃発しました。

1−2−1 ウィーン三月革命

フランス二月革命は、オーストリアの首都であるウィーンにまで波及しました。

市民や学生が蜂起し、ウィーン会議の主催者であったメッテルニヒを失脚させました。

蜂起した市民に宮殿を取り囲まれたメッテルニヒは、イギリスに亡命しました。

メッテルニヒ亡命の風刺画

メッテルニヒ亡命の風刺画

この革命によって、オーストリア皇帝は自由主義の実現と憲法の制定を認めました。

しかし、政府は数ヶ月後に反撃に転じ、革命を鎮圧しました。

1−2−2 ベルリン三月革命

三月革命

ベルリン三月革命

プロイセンの首都であるベルリンでも、フランス二月革命の波が来ました。

市民は、憲法の制定出版の自由を求めて蜂起しました。

政府の態度に不満を持った市民は、暴動を起こして自由主義の内閣を発足させました。

国王は憲法制定を約束し、フランクフルト国民議会を開催しました。

しかし、オーストリアと同様、国王は憲法を拒否し、国民議会を解散させ、市民の革命を軍隊で弾圧しました。

市民側は軍による取り締まりで弱体化し、ベルリン三月革命は終わりを告げました。

1−3 諸国民の春

諸国民の春は、二月革命・三月革命でウィーン体制が崩壊したことによって、ヨーロッパ各地で抑圧されていた民族が春に運動を開始したことを指します。

1−3−1 イタリア

二月革命・三月革命は、イタリアにも飛び火しました。

当時のイタリアは、オーストリアに支配されていました。

オーストリアで三月革命が起こると、ミラノ・ヴェネチアでも暴動が発生しました。

ローマでは、市民が蜂起してローマ共和国を樹立し、ローマ教皇を罷免しました。

これらの運動は、イタリア統一運動にも影響を及ぼしましたが、最終的にはオーストリア軍とフランス軍によって鎮圧されました。

1−3−2 ハンガリー

当時のハンガリーは、ハプスブルク朝のオーストリア帝国の支配下にありました。

ハンガリーでは、オーストリアの三月革命によってウィーン体制が崩壊したことを受け、政治家のコシュート・ラヨシュが中心となって、独立にむけた「ハンガリー民族運動」が始まりました。

コシュート・ラヨシュ

コシュート・ラヨシュ

三月革命で混乱していたオーストリア皇帝は、ハンガリーに憲法制定や出版・言論の自由などを認め、新たな内閣が発足しました。

しかし、国内の民族間に対立が生じ、その混乱を知ったオーストリア皇帝は軍隊を派遣しました。

オーストリア軍とハンガリー軍は戦闘状態に入り、ハンガリー軍が優勢でした。

そこで、オーストリア皇帝はロシアに救援を要請し、ロシア軍の参戦によってハンガリーは敗北しました。

革命運動によって手に入れた憲法や自由は、最終的に再度奪われることになりました。

1−3−3 ボヘミア

当時のボヘミア(ベーメン、現在のチェコ)は、ハンガリー同様にオーストリアに支配されていました。

三月革命の混乱に乗じて「ベーメン民族運動」が勃発し、市民は自由・平等、封建的負担の廃止などを要求しました。

オーストリア皇帝は、これらの要求を呑み、ボヘミアでは仮の政府が樹立されました。

しかし、市民の蜂起が激化するにつれて、オーストリア軍は弾圧をし始めました。

その結果、プラハで行われた蜂起は鎮圧され、オーストリアからの自由を獲得することはできませんでした。

Part 2:おすすめの書籍

もっと「1848年革命」を学びたいという人は、以下の書籍がおすすめです。

Part 3:まとめ

いかがでしたか?

1848年革命」をまとめると、

【1848年革命】 要点
・二月革命(フランス):普通選挙の実施を拒否されたことに対して、市民が王政を終わらせた革命
・三月革命(オーストリア・プロイセン):二月革命が波及した自由主義を掲げる革命
・諸国民の春:二月革命・三月革命でウィーン体制が崩壊したことによって、ヨーロッパ各地で抑圧されていた民族が春に運動を開始したこと
・革命の波及:イタリア・ハンガリー・ボヘミア

以上です。

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最後までご覧いただきありがとうございました。

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