【ナポレオン戦争】戦争の経過や戦後体制などをわかりやすく解説

Introduction:ナポレオン戦争とは?

ナポレオン戦争(Napoleonic Wars)とは、

1796〜1815年にナポレオン・ボナパルトによって繰り広げられた一連の戦争

です。

ナポレオン戦争は、フランス革命と並んでヨーロッパにおける重要な歴史的出来事です。

フランス革命についてまとめた記事は以下のリンクからご覧いただけます。

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フランス革命

本記事では、ナポレオン戦争の経過やウィーン体制について解説していきます。

【ナポレオン戦争】 要点
・ナポレオンの台頭:外国からのフランス革命への干渉を防衛
・防衛戦争から征服戦争へ
・大陸封鎖令に従わないロシアにモスクワ遠征
・ロシアに敗北し、ナポレオン没落
・エルバ島脱出から百日天下でセントヘレナ島へ流刑
・ウィーン体制:ナポレオン戦争後のヨーロッパ秩序の安定のために開催されたウィーン会議で決定された国際秩序で、フランス革命とナポレオン戦争以前の秩序を復活させた体制

Part 1:ナポレオン戦争の経過

ナポレオン戦争は、フランスを外国の攻撃から守る防衛戦から始まり、対外侵略戦争へと変化しました。

1−1 ナポレオンの台頭

ナポレオンはフランス革命の末期、オーストリアとイギリスの干渉から革命を防衛するための戦争の指揮をとることから登場します。

ナポレオンは、26歳でイタリア遠征の指揮官に任命され、オーストリアを撃破しました。

そして、「カンポ=フォルミオの和約」を締結し、「第1回対仏大同盟」を終結させました。

また、エジプト遠征では、オスマン帝国軍を破りましたが、「ナイルの海戦」ではイギリスに敗北しました。

ナイルの海戦

ナイルの海戦

それに対してイギリスは「第2回対仏大同盟」を結成し、フランスに対抗しました。

フランスに戻ったナポレオンは、「ブリュメール18日のクーデタ」を起こして第一統領となり、事実上の独裁的権力を手に入れました

このように若いながらに戦争で結果を残したナポレオンは、政治的・軍事的実権を握るようになります。

1−2 征服戦争

フランスの市民から支持を得たナポレオンは、防衛戦争から一転して侵略戦争を始めます

1800年に第二次イタリア遠征を行い、「マレンゴの戦い」でオーストリア軍を撃破しました。

マレンゴの戦い

マレンゴの戦い

1802年には「アミアンの和約」でイギリスと一時的に講和が成立しましたが、1804年にナポレオンが皇帝に即位したことで、「第3回対仏大同盟」が結成されました。

それに対してナポレオンは、イギリスを征服するために「トラファルガーの海戦」を行いましたが、イギリス海軍に敗北しました。

トラファルガーの海戦

トラファルガーの海戦

海上戦で敗北したナポレオンでしたが、陸上戦では連勝を重ねました。

1805年に「アウステルリッツの戦い」でオーストリア・ロシア軍、1806年に「イエナの戦い」でプロイセン軍に勝利ました。

また、1807年にポルトガル征服、1808年にスペイン征服を行いました。

このように、防衛戦から始まったナポレオン戦争はヨーロッパの侵略戦争へと変化しました。

1−3 ナポレオンの没落から終戦へ

ナポレオンは、天敵であるイギリスの孤立・弱体化を狙って、フランスが征服した国に「大陸封鎖令」を出しました。

大陸封鎖令とは、

イギリスとの貿易を禁止する経済封鎖の命令

です。

ナポレオンは、イギリスを経済的に弱体化させてから侵略をしようと試み、征服地に対してイギリスとの貿易禁止の命令を出しました。

しかし、ロシアは大陸封鎖令に従わず、イギリスとの貿易を継続しました。

それを知ったナポレオンは、1812年にモスクワ遠征を行い、40万人の大軍を派遣しました。

しかし、モスクワの厳しい寒さや食糧を断たれたことによって、ナポレオン軍は陸上戦で初めて敗北を喫しました。

この敗北で弱体化したナポレオン軍は、1813年に「ライプツィヒの戦い(諸国民の戦い)」でプロイセン、オーストリア、ロシア、スウェーデンの連合軍に敗北しました。

この戦いで連合軍はパリに入城し、ナポレオンは退位となり、エルバ島へ流刑となりました。

しかし、ナポレオンはエルバ島を脱出し、パリに戻って皇帝へと返り咲きました。

そしてナポレオンは、1815年に「ワーテルローの戦い」でイギリス軍に敗北し、セントヘレナ島へ流刑となり、ナポレオン戦争は終結しました。

ワーテルローの戦い

ワーテルローの戦い

ナポレオンが復帰してから再び退位するまでの約100日間を「百日天下」といい、短期間の政権を比喩するときなどに使われます。

ナポレオン戦争の影響
ナポレオン戦争によって、傭兵を中心とした軍隊から、徴兵制に基づく国民軍による戦争が主流になりました。

Part 2:ウィーン体制

ウィーン体制(Vienna system)とは、

ナポレオン戦争後のヨーロッパ秩序の安定のために開催されたウィーン会議で決定された国際秩序で、フランス革命とナポレオン戦争以前の秩序を復活させた体制

です。

ウィーン会議

ウィーン会議

ナポレオンによる侵略戦争によって秩序が乱れたヨーロッパにおいて、ナポレオンが没落したため、秩序回復・安定した体制の確立が必要になりました。

そこで、1814~15年にかけてオーストリアの外相であるメッテルニヒが議長となってウィーン会議を開催しました。

ウィーン会議には、ロシア・プロイセン・イギリス・オーストリア・フランスなどが主要な国として参加しました。

会議は、戦後処理や侵略戦争による領土の処理などが主要な議題として話し合われました。

しかし、各国は自国に有利な条件を譲らず、会議はなかなか進展しませんでした。

議論は進まずに舞踏会で時間を浪費したため「会議は踊る、されど進まず」と言われました。

ウィーン会議が進まない中、ナポレオンがエルバ島から脱出したことで、会議の終結が急がれました。

そして、1815年にウィーン議定書が調印され、会議は終了しました。

その結果ウィーン体制は、フランス革命とナポレオン戦争以前のヨーロッパに戻すことになり、1848年革命・クリミア戦争までの長期の安定をもたらしました。

これは、フランスのタレーランが提唱した「正統主義」が採用された結果です。

Part 3:おすすめの書籍

もっと「ナポレオン戦争」を学びたいという人は、以下の書籍がおすすめです。

Part 4:まとめ

いかがでしたか?

ナポレオン戦争」をまとめると、

【ナポレオン戦争】 要点
・ナポレオンの台頭:外国からのフランス革命への干渉を防衛
・防衛戦争から征服戦争へ
・大陸封鎖令に従わないロシアにモスクワ遠征
・ロシアに敗北し、ナポレオン没落
・エルバ島脱出から百日天下でセントヘレナ島へ流刑
・ウィーン体制:ナポレオン戦争後のヨーロッパ秩序の安定のために開催されたウィーン会議で決定された国際秩序で、フランス革命とナポレオン戦争以前の秩序を復活させた体制

以上です。

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最後までご覧いただきありがとうございました。

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