プラハの春(Prague Spring)とは、
です。
プラハの春は、冷戦下における東側陣営の歴史的な出来事です。
冷戦についてまとめた記事は以下のリンクからご覧いただけます。
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Part 1:内容解説
プラハの春によって、チェコスロヴァキアは様々な自由を勝ち取りましたが、ソ連によってすぐ奪われる形になりました。
1−1 背景:スターリン批判
チェコスロヴァキアで民主化運動が起こった背景に、フルシチョフソ連共産党第一書記が秘密報告の中でスターリンを批判したことが挙げられます。
フルシチョフがスターリンの政治や個人崇拝を批判したことで、東側陣営の共産主義圏の思想・政治体制に影響を及ぼしました。
スターリン批判によって、共産主義圏の粛清(厳しい取り締まり)や計画経済に批判が集まり、体制に揺らぎが見え始めました。
スターリン批判はチェコスロヴァキアにも波及し、アントニーン・ノヴォトニー共産党第一書記兼大統領への批判も高まりました。
その結果、1968年、ノヴォトニーの代わりにアレクサンデル・ドゥプチェクが共産党第一書記に就任しました。
このように、ソ連におけるフルシチョフによるスターリン批判が波及したことで、民主化の動きが開始します。
1−2 プラハの春:自由の獲得
アレクサンデル・ドゥプチェク
共産党第一書記に就任したドプチェクは、民主化を目指して改革に着手しました。
具体的には、国家が出版物を取り締まる検閲制度廃止し、言論の自由を保障したり、「共産党行動綱領」を採択するなどしました。
共産党行動綱領は、共産党の権力集中の是正や基本的人権の尊重、経済の自由化、西側諸国との経済交流といったことが掲げられました。
このような改革を行なったドプチェクは、「人間の顔をした社会主義」という理念を掲げて民主化を推進しました。
このように、ドプチェク主導によるチェコスロヴァキアでの民主化運動をプラハの春と言います。
様々な自由を保障したプラハの春でしたが、ソ連によって妨害されてしまいます。
1−3 チェコ事件:ソ連による弾圧
民主化や経済の自由化によって、社会主義陣営の崩壊を危惧したブルジネフソ連共産党第一書記は、ワルシャワ条約機構(WTO)の軍をチェコスロヴァキアに派遣し、民主化を阻止しました。
軍隊はプラハを占拠し、ドプチェクを解任するなどして、民主化の波を沈めました。
ブルジネフは、ブルジネフ=ドクトリンという社会主義国が連帯するべきであるという原則を発表し、一方的な軍事介入を正当化しました。
ブルジネフ=ドクトリンは、社会主義陣営の足並みを乱すこととなり、東側陣営が団結して西側諸国に対抗することの困難さが露呈しました。
このようなワルシャワ条約機構軍の侵攻や自由が奪われることに対して、大学生だったヤン・パラフは、プラハの中央広場で焼身自殺をして抗議しました。
以上のように、ドプチェクの主導で保障された様々な自由は、ソ連の軍事介入によって奪われることになりました。
Part 2:おすすめの書籍
もっと「プラハの春」を学びたいという人は、以下の書籍がおすすめです。
Part 3:まとめ
いかがでしたか?
「プラハの春」をまとめると、
以上です。
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最後までご覧いただきありがとうございました。