ソマリア内戦(Somali civil war)とは、
です。
ソマリア内戦は、世界最大規模の難民キャンプを生み出すほどの長期化した内戦です。
本記事では、ソマリア内戦について解説していきます。
Part 1:内容解説
ソマリア内戦は、複雑な対立構造によって徐々に泥沼化していきます。
1−1 内戦の背景
イギリスとイタリアに植民地支配を受けていたソマリアは、独立後、バーレ大統領による軍事独裁政権が実権を握っていました。
モハメド・シアド・バーレ
1977年、国境問題から隣国のエチオピアと対立し、オガデン戦争(エチオピア=ソマリア戦争)が勃発しました。
この戦争に実質的に敗北したことに加え、戦争による経済・社会の混乱によって、反政府運動が活発になりました。
また、バーレ大統領による独裁政治に対する不満の声も高まり、政府を打倒する動きが各地で始まりました。
1−2 内戦の経過
バーレ大統領は運動を弾圧しましたが、統一ソマリ会議と呼ばれる反政府勢力を中心に、バーレ大統領を追放することに成功し、バーレ大統領は国内に亡命しました。
独裁政権が終了して暫定政権が樹立されたことで内戦は終了すると思われましたが、旧イギリス領の北ソマリアが「ソマリランド共和国」として分離独立を宣言しました。
さらに、反政府勢力の中心だった統一ソマリ会議のモハメド将軍とアイディード将軍が権力闘争で対立しました。
このように、バーレ大統領による独裁政治が終了しても、分離独立を目指す北ソマリア・暫定政権の権力掌握を目指すモハメド将軍とアイディード将軍という三つ巴の対立構造になりました。
このような状況に対し、国連の安全保障理事会は国連平和維持活動(PKO)の実施を決定し、多国籍軍をソマリアへ派遣しました。
多国籍軍は、アイディード将軍を捕えて内戦を沈静化することを目論んでいましたが、ソマリア兵の抵抗によって失敗しました。
これは「モガディシュの戦闘」と呼ばれ、多国籍軍の介入は失敗に終わり、撤退となりました。
国連の介入も失敗に終わり、ソマリア内戦は泥沼化していきます。
ソマリア内に、旧イギリス領ソマリランドの「ソマリランド共和国」、旧イタリア領ソマリア北部の「プントランド共和国」、南西部の「南西ソマリア」という3つの政権が誕生し、それぞれが対立するという形になりました。
2000年代には、アル・シャバブというイスラム過激派組織の活動が活発化したり、イスラム法廷会議という自治政府が首都を占領するなど、イスラム勢力が台頭しました。
2006年、隣国のエチオピアがソマリアへ侵攻し、アメリカもそれを支援しました。
その結果、暫定政府が国家権力を掌握し、2008年にイスラム法廷会議と停戦が合意されました。
2012年に「ソマリア連邦共和国」として他国から正式に承認されましたが、小k内ではテロが頻発するなど、情勢は安定していません。
このように長期化した内戦によって、ソマリア海賊が商船を襲撃するといった事件が発生したり、旱魃によって多くの市民が飢餓に苦しむといった被害が起きました。
さらに、ソマリア内戦による難民キャンプは世界最大規模と言われており、約35万人がケニアに逃れたと言われています。
Part 2:おすすめの書籍
もっと「ソマリア内戦」を学びたいという人は、以下の書籍がおすすめです。
Part 3:まとめ
いかがでしたか?
「ソマリア内戦」をまとめると、
以上です。
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最後までご覧いただきありがとうございました。