フランス革命(French Revolution)とは、
です。
フランス革命は、絶対王政、立憲君主制、共和制など様々な体制の変化を伴って行われた革命です。
また、歴史的に非常に重要な出来事であると言えます。
本記事では、フランス革命の背景と革命の経過を解説していきます。
Part 1:革命前夜
フランス革命が起こる背景として、当時の身分制度や思想的背景、民衆の不満の蓄積といった事が挙げられます。
1−1 啓蒙思想
啓蒙思想とは、
です。
有名な啓蒙思想は、「社会契約論」があります。
「社会契約論」・ロック「市民政府二論」・ホッブズ「リヴァイアサン」についてまとめた記事は以下のリンクからご覧いただけます。
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啓蒙思想は、合理的でない伝統や制度を批判し、理性的に考えることを重視します。
そのため、「自然権」や「三権分立」の重要性が認識され、市民権が主張され始めました。
このように自由や平等、人権といった概念を包含する思想は、フランス革命に大きな影響を与えることになります。
1−2 アンシャン=レジーム(旧制度)
アンシャンレジームとは、
です。
当時のフランスは、
第二身分:貴族(全人口の1.6%)
第三身分:平民(全人口の92%)
という3段階の身分制度でした。
第一身分と第二身分は特権身分であり、税金を納める義務を負いませんでした。
また、納税の義務がある第三身分の市民達には参政権が認められておらず、人口のトップ2%である第一身分と第二身分が国を支配し、98%の市民から税金を徴収するような構図でした。
この写真は、アンシャンレジームを風刺した絵です。
これは、第三身分の上に乗っかる第一身分と第二身分を表しています。
第三身分の中にも、経済的に余裕のある富裕層もいれば、平均的な生活を送ることができる中産階級、貧しい下層階級といった分類がありました。
このような絶対王政のもとで、納税しているのにもかかわらず政治に参加できないことに、市民の不満は蓄積していきました。
1−3 財政危機
当時のフランスでは、財政赤字が膨らんでいました。
主な原因は、
・対外戦争による出費
・宮廷の浪費
・アメリカ独立戦争への援助
・累積債務
などが挙げられます。
財政危機に陥ったフランスは、免税対象であった第一身分と第二身分からも税金を徴収しようと試みました。
しかし、参政権を持っている聖職者や貴族は猛反発をしたため、財政改革は実行できませんでした。
ちなみに、第三身分への税率はすでに高税率になっており、増税の余地がなかったために第一身分と第二身分への税金を検討しました。
1−4 三部会から国民議会へ
フランスの財務長官は、財政赤字を克服するために何度も第一身分と第二身分への課税を試みましたが、貴族の抵抗によって辞職に追い込まれました。
そこで、特権身分への課税を話し合うために全国三部会の開催が決定されました。
三部会とは、
です。
三部会は参加者の多数決ではなく、身分別議決法という決議方法がとられていました。
身分別議決法は、各身分が議題に対する立場を表明し、1票を有するという決議方法です。
そのため、特権身分への課税の決議を取った場合、第一身分と第二身分は反対し、第三身分は賛成するということになりました。
このように第三身分にとって明らかに不利な身分別議決法に対して、市民側の不満が膨らんでいきました。
三部会で議論をしても市民側の要求が通る事がないため、第三身分は三部会を離脱し、憲法制定を目的とする「国民議会」を結成しました。
市民達はヴェルサイユ宮殿内の球戯場に集まって、憲法を制定し、国民議会を承認するまでは解散しないと誓いました。
これを「球戯場の誓い(テニスコートの誓い)」と言います。
球戯場の誓い
聖職者や貴族の中にもアンシャンレジームの限界を理解している勢力が一定数おり、国民議会に参加しました。
当時の国王であるルイ16世は、そうした勢力との軋轢を回避するために国民議会を正式な議会として認めました。
しかし、徐々に国民議会と国王の対立が激化していき、フランス革命へとつながっていきます。
Part 2:革命の経過
フランス革命は、怒った市民がバスティーユ牢獄を襲撃したことから始まります。
2−1 バスティーユ牢獄襲撃
国民議会を結成した第三身分に圧力をかけるため、国王は軍隊をヴェルサイユに集結させました。
また、市民から人気のあった政治家・銀行家であるジャック・ネッケルが国王によって罷免されました。
このような「軍隊の召集・ネッケル罷免」が引き金となって、市民は当時火薬庫だったバスティーユ牢獄を襲撃しました。
この、「バスティーユ牢獄襲撃」が革命の勃発であると言われています。
バスティーユ牢獄襲撃
市民は火薬庫から武器を奪って、特権身分と戦う準備をしました、
この襲撃はフランス全土に拡大し、農民が貴族の館を襲撃したり、借金の証文を焼き捨てるなどしました。
2−2 人権宣言・ヴェルサイユ行進
この事態を受けた国民議会は、封建的特権の廃止を決定しました。
しかし、封建地代は有償廃止であったため、市民の不満は解消されていませんでした。
国民議会は平等で自由なフランスを目指していたため、市民が好き勝手に暴れることを危惧していました。
そこで、どのようなフランスを目指していくか、革命の方向性を明確にするために「人権宣言」が採択されました。
人権宣言は、貴族のラ=ファイエットが起草したもので、国民主権や自由平等、抵抗権、法の支配、権力分立といった内容でした。
人権宣言
そして、その年の10月に小麦の不作による穀物価格高騰と食糧危機が起こりました。
それに怒ったパリの女性市民6000〜7000人が、ヴェルサイユ宮殿まで行進を行い、国王夫妻をパリへと連行しました。
これを「ヴェルサイユ行進」と言います。
ヴェルサイユ行進
こうして、革命の中心はヴェルサイユからパリへと移ることになります。
2−3 ヴァレンヌ逃亡事件
パリに移った国宝は、ヴェルサイユから離れたことで不安を抱えていました。
その時、国民議会と国王をつないでいたミラボーという人物が死去したことにより、国王の不安はより一層強まりました。
そこで、1791年に国王夫妻は妻のマリーアントワネットの実家があるオーストリアへ逃亡しようと試みます。
しかし、国王夫妻はヴァレンヌという街で捕まり、パリへ連行されました。
これを「ヴァレンヌ逃亡事件」と言います。
これがフランス全土に広まると、国民を捨てて逃げようとした国王として、権威が失墜しました。
そして同年9月、国民議会は立憲君主制や制限選挙を定めた「1791年憲法」を制定しました。
憲法制定を目的としていた国民議会は目的を達成しため、解散しました。
周辺諸国の国王や貴族は、フランス革命が自国へ波及することを懸念し、1791年に「ピルニッツ宣言」を発表しました。
ピルニッツ宣言は、オーストリア皇帝とプロイセン王がフランス革命に干渉し、王政復活を要求した宣言です。
2−4 立法議会から王権停止へ
1791年憲法に基づいて「立法議会」が招集されました。
この議会では、フイヤン派とジロンド派の対立が中心となりました。
フイヤン派:立憲君主制の維持を主張する勢力。
ジロンド派:共和制を主張する勢力。国王を廃止。
この対立は徐々にジロンド派が優勢になり、ジロンド派内閣が成立しました。
王政を廃止して共和制の実現を目指すジロンド派は、「ピルニッツ宣言」のような周辺諸国による革命への干渉を排除するために、オーストリアに宣戦布告をしました。
戦闘の経験が乏しかったフランス軍は戦争の序盤は劣勢でしたが、各地から義勇軍がパリに集結し、ヴァルミーの戦いでフランスは勝利を収めました。
この時にマルセイユから集った義勇軍が「ラ=マルセイエーズ」を歌っており、これが現在のフランス国歌になっています。
戦争の混乱の最中、1792年8月10日に義勇兵や都市労働者がテュイルリー宮殿を襲撃し、立法議会は王権の停止と男性普通選挙の実施を宣言して解散しました。
これを「8月10日事件」と言います。
8月10日事件
2−5 国民公会から国王処刑
立法議会の宣言通り、1792年に財産制限のない男性普通選挙が実施され、「国民公会」という議会が発足し、王政廃止と共和制(第一共和制)が決定されました。
国民公会は、穏健共和派のジロンド派と過激共和主義のジャコバン派が元国王の処理について対立していました。
ジロンド派は、元国王を処刑すると周辺諸国との関係が悪化することを懸念し、処刑に反対しました。
周辺諸国のほとんどは王政を採用しており、国王を処刑することで革命が自国へ波及することを恐れる可能性があったからです。
しかし、政治家であり革命家のロベスピエール率いるジャコバン派は元国王の存在が共和制にとって邪魔であると主張し、処刑を主張しました。
その議論の最中、国王が外国と繋がっていた証拠が宮殿で発見され、議論は処刑に傾きました。
そして1793年、元国王夫妻のルイ16世とマリーアントワネットはコンコルド広場の断頭台で処刑されました。
ルイ16世とマリーアントワネット処刑
2−6 ジャコバン派の恐怖政治
フランスの国王処刑に対して、革命の波及を遅れたイギリスを中心とした周辺諸国が「第1回対仏大同盟」を結成しました。
フランスでは、ジャコバン派が勢力を拡大し、国民公会からジロンド派を追放しました。
そのため、ロベスピエール率いるジャコバン派の独裁政治が始まります。
ロベスピエールは、「第1回対仏大同盟」に対抗するために徴兵制を導入したり、封建地代の無償廃止など、急進的な政策を実施しました。
このような徴兵制に対して、フランス南西部のヴァンデー地方で農民が反乱を起こしましたが、ジャコバン派によって抑えられました。
これを「ヴァンデーの反乱」と言います。
ロベスピエールはメートル法や最高価格令といった革新的な政策を行い、男性普通選挙などを規定した1793年憲法を制定しました。
しかし、ジャコバン派の独裁的な恐怖政治に反発した勢力がクーデターを起こしました。
これを「テルミドール(9日)のクーデタ」と言います。
テルミドール(9日)のクーデタ
その結果、ロベスピエールは逮捕され、ギロチンで処刑されました。
ロベスピエール処刑
ロベスピエールの死後、1795年憲法に基づいて、独裁を回避するために5人の総統による政府である総統政府が成立しました。
その後、ナポレオンの台頭へと続いていきます。
ナポレオン戦争についてまとめた記事は以下のリンクからご覧いただけます。
Introduction:ナポレオン戦争とは? ナポレオン戦争(Napoleonic Wars)とは、 1796〜1815年にナポレオン・ボナパルトによって繰り広げられた一連の戦争 です。 ナポレオン戦争は、フランス革命と並んで[…]
Part 3:おすすめの書籍
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Part 4:まとめ
いかがでしたか?
「フランス革命」をまとめると、
以上です。
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最後までご覧いただきありがとうございました。