【三十年戦争】戦争の経緯やウェストファリア条約などわかりやすく解説

Introduction:三十年戦争とは?

三十年戦争(Thirty Years’ War)とは、

1618年〜1648年にヨーロッパを舞台に行われた宗教戦争

です。

三十年戦争は、最大の宗教戦争かつ悲惨なものであると言われています。

この戦争をきっかけに、国際政治体制に多くの変化が起こり、国際政治史における重要な出来事であると言えます。

本記事では、三十年戦争の経過や講和条約を解説してきます。

【三十年戦争】 要点
・戦争の原因:カトリック強制によるベーメンの反乱
・戦争の第4段階:ボヘミア・デンマーク・スウェーデン・フランス
・三十年戦争:カトリックvsプロテスタントからハプスブルク家vsブルボン家へ
・ウェストファリア条約:領土割譲・独立承認・主権国家・新教徒の信仰

Part 1:戦争の経過

三十年戦争は名前の通り、終戦までに30年もかかりました。

1−1 戦争の原因

戦争の原因は、「カトリック強制によるベーメンの反乱」です。

三十年戦争は、ルターが行った宗教改革の約100年後に起きました。

宗教改革によって、主流だったカトリック(伝統的なキリスト教)から分裂したプロテスタント(新教徒)が生まれました。

そのため当時のヨーロッパには、カトリックを信じる勢力とプロテスタントを信じる勢力が存在していました。

しかし、神聖ローマ帝国の皇帝になったフェルディナンド2世は、帝国内をカトリックで統一しようとし、プロテスタントにもカトリックを強制しました

神聖ローマ帝国は、イタリア・ドイツ・チェコ・オーストリアといった諸国を統一した帝国です。

カトリックの強制に対抗して、ベーメン(ボヘミア地方・チェコ共和国)のプロテスタントが反乱を起こした「ベーメンの反乱」が起きました。

これは、プロテスタントが皇帝の代官をプラハの役所の窓から投げ捨てるという「プラハ窓外放出事件」が起きたことで有名です。

プラハ窓外放出事件

「プラハ窓外放出事件」

ベーメンの反乱は最終的にプロテスタントの敗北で終わりましたが、三十年戦争のきっかけとなりました。

1−2 戦争の第4段階

神聖ローマ帝国内のカトリックとプロテスタントの対立から始まった三十年戦争は、ヨーロッパ各国の参戦によって激化・長期化することになります。

三十年戦争は一つの大きな戦争のことを指すのではなく、三十年にも渡って繰り広げられた多くの戦争をまとめた宗教戦争を指します。

三十年戦争は大きく分けて4つの段階に分けることができます。

第1段階:ボヘミア・プファルツ戦争(1618年〜1623年)

第2段階:デンマーク戦争(1625年〜1629年)

第3段階:スウェーデン戦争(1630年〜1635年)

第4段階:フランス・スウェーデン戦争(1635年〜1648年)

1−2−1 第1段階:ボヘミア・プファルツ戦争(1618年〜1623年)

第1段階は、1618年〜1623年にかけて行われたボヘミア・プファルツ戦争です。

これは、先述したベーメンの反乱が起こった段階を指します。

神聖ローマ帝国内のベーメンのプロテスタントがカトリックの勢力に反乱を起こしました。

この戦いは、プロテスタント側にオランダ、カトリック側にスペインが支援することで規模が拡大しました。

しかし、最終的にはカトリック側の勝利に終わりました。

ボヘミア地方は、現在のチェコ共和国のあたりを指し、プファルツは、プロテスタント側が擁立した国王のことを指します。

1−2−2 第2段階:デンマーク戦争(1625年〜1629年)

第2段階は、1625年〜1629年にかけて行われたデンマーク戦争です。

デンマーク王だったクリスチャン4世は、1625年にプロテスタント側として参戦しました。

しかし、カトリックの傭兵隊隊長だったヴァレンシュタインの活躍によって、デンマークは撃退されました。

ヴァレンシュタイン

ヴァレンシュタイン

第2段階のデンマーク戦争も、カトリックの勝利に終わります。

1−2−3 第3段階:スウェーデン戦争(1630年〜1635年)

第3段階は、1630年〜1635年にかけて行われたスウェーデン戦争です。

デンマークの敗北を知ったスウェーデン王のグスタフ=アドルフは、プロテスタントの保護と神聖ローマ帝国の北上を阻止するために参戦しました。

グスタフ=アドルフ

グスタフ=アドルフ

この時、デンマークを破ったヴァレンシュタインは、謀反の疑いによって暗殺されました。

スウェーデン軍はカトリックに勝利しましたが、王のグスタフ=アドルフは戦死しました。

最終的に、スウェーデン軍と神聖ローマ皇帝軍は和約を結んで終戦に至りました。

1−2−4 第4段階:フランス・スウェーデン戦争(1635年〜1648年)

第4段階は、1635年〜1648年にかけて行われたフランス・スウェーデン戦争です。

ドイツのプロテスタントが劣勢である状況を知ったフランスの宰相リシュリューは、ドイツに進軍し、スウェーデンも同時に参戦しました。

リシュリュー

宰相リシュリュー

メモ

当時のフランスは、カトリックが主流の国でした。

しかし、神聖ローマ帝国のハプスブルク家がヨーロッパの覇権を握ることを恐れたフランスのブルボン家は、宗派よりも政治的な覇権を握ることを重視し、プロテスタントに味方をしました。

最初は「カトリックvsプロテスタントの宗教的抗争」でしたが、三十年戦争の末期になると「ハプスブルク家vsブルボン家の政治的抗争」に変化しました。

フランスの参戦に対抗するために、カトリックはスペイン軍が参戦することで応戦しました。

こうして、フランス・スウェーデンのプロテスタント勢力とスペイン・神聖ローマ帝国(ドイツ)のカトリック勢力が争いを繰り広げました。

この戦争中に、スペインで起きた反乱やポルトガルの独立によってスペインの形成が不利になり始めました。

しかし、10年以上にもわたる戦争に決着がつかず、最終的には講和という形で終戦に至りました。

三十年続いた悲惨な宗教戦争は、「ウェストファリア条約」によって講和が成立しました。

Part 2:ウェストファリア条約

ウェストファリア条約は、ミュンスター講和条約とオスナブリュック講和条約の総称であり、ウェストファリア会議で締結されました。

ウェストファリア条約によって形成された体制を「ウェストファリア体制」と言います。

「ウェストファリア体制」についてまとめた記事は以下のリンクからご覧いただけます。

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ウェストファリア体制

ウェストファリア条約はヨーロッパの大国が参加し、多くの内容が取り決められました。

その多くは、領土の割譲や賠償金額の決定、独立の承認といったものがあります。

ここでは、その中の代表的な内容を挙げます。

・オランダ・スイスの独立

・フランス・スウェーデンがドイツ領の一部を獲得

・新教徒・カルヴァン派の信仰が認められる

・諸侯が独立した領邦となり、主権国家として認められる→神聖ローマ帝国の実質的な解体

ウェストファリア条約によって神聖ローマ帝国が解体され、諸侯が独立しました。

また、一部の国の独立が認められたり、領土の割譲が行われるなどしました。

そして、宗教戦争だった三十年戦争は、最終的に新教徒・カルヴァン派の信仰を認めるという結論に至りました。

ウェストファリア条約によって、神聖ローマ帝国が解体したり、諸侯が独立して主権国家を築くなど、ヨーロッパにおける国際体制が大きく変化しました。

Part 2:おすすめの書籍

もっと「三十年戦争」・国際関係史を学びたいという人は、以下の書籍がおすすめです。

Part 3:まとめ

いかがでしたか?

三十年戦争」をまとめると、

【三十年戦争】 まとめ
・戦争の原因:カトリック強制によるベーメンの反乱
・戦争の第4段階:ボヘミア・デンマーク・スウェーデン・フランス
・三十年戦争:カトリックvsプロテスタントからハプスブルク家vsブルボン家へ
・ウェストファリア条約:領土割譲・独立承認・主権国家・新教徒の信仰

以上です。

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最後までご覧いただきありがとうございました。

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