【パレスチナ問題】パレスチナ問題の背景や経過をわかりやすく解説

Introduction:パレスチナ問題とは?

パレスチナ問題とは、

パレスチナにおけるイスラエル建国から始まったアラブ人とユダヤ人の対立・一連の戦争

です。

中東問題・イスラエルパレスチナ問題は、非常に複雑であり、現在も混迷が続いている問題です。

本記事では、中東問題・イスラエルパレスチナ問題について解説していきます。

Part 1:内容解説

中東問題は、19世紀末にまで遡ります。

1−1 対立の始まり

19世紀末から、シオニズムという思想が広がっていきました。

1−1−1 シオニズムの高揚

中東に住むアラブ人とユダヤ人は、イスラム教とキリスト教という宗教の違いはありつつも、長く共存していました。

対立が始まったのは、19世紀末のシオニズムの高まりとイギリスの三枚舌外交によるものでした。

シオニズムとは、

パレスチナの古名であるシオンを故郷とするユダヤ人が、故郷を再建しようとする思想・運動

です。

ローマ時代に世界中へと離散したユダヤ人は、世界各地で生活をしていました。

しかし、キリスト教が支配的となった中世ヨーロッパ以降、ユダヤ教徒が世界中で迫害されるようになりました。

このような背景から、ユダヤ人は故郷であるパレスチナに祖国を再建する思想が広まっていきました。

1−1−2 イギリスの三枚舌外交

このようなシオニズムを後押ししたのが、イギリスです。

当時のパレスチナは、オスマン帝国が統治しており、アラブ人(パレスチナ人)が住んでいました。

またパレスチナには、キリスト教・イスラム教・ユダヤ教の聖地であるエルサレムがあるため、それぞれの宗教を信奉する人々にとって重要な土地であるといえます。

第一次世界大戦中のイギリスは、ユダヤ人から戦争資金を調達するために、パレスチナにユダヤ人国家を建設することを支持するという「バルフォア宣言」を発表しました。

しかしイギリスは、敵対していたオスマン帝国を弱体化させるため、オスマン帝国の支配下にあったアラブ人の民族主義を利用しようと考えました。

そしてイギリスは、アラブ人の独立を支援することを条件にイギリスへの協力を求めた「フセインマクマホン協定」をアラブ人の太守だったフセインと締結しました。

さらにイギリスは、第一次世界大戦後に中東を分割して統治するという「サイクスピコ協定」を同盟国のフランスと結びました。

これら3つの宣言・条約はそれぞれ矛盾する内容であり、イギリスの三枚舌外交と呼ばれています。

つまりイギリスは、ユダヤ人・アラブ人・フランスと秘密条約を結び、それぞれにいい顔をすることで自国を有利に進めようとしました。

このようなイギリスの三枚舌外交がきっかけとなり、中東の領土を巡った争いは深まっていきます。

第一次世界大戦にイギリス・フランス同盟が勝利し、中東はイギリスとフランスが統治することになりました。

つまりイギリスは、フランスと締結したサイクスピコ協定を守り、ユダヤ人・アラブ人との約束を反故にしました。

こうして、ユダヤ人とアラブ人の対立は深刻化していきます。

1−1−3 イスラエル建国

1930年代、ドイツでナチスがユダヤ人を迫害し、大量虐殺を行った事実が世界中に広がり、シオニズムが高まりました。

第二次世界大戦終戦後の1947年、ユダヤ人とアラブ人の対立を見かねた国連は、パレスチナにユダヤとアラブの2つの国家を建設するという「パレスチナ分割決議」を採択しました。

しかし、少数のユダヤ人に半分以上の土地が与えられることに不満を持ったアラブ側は猛反発しました。

ユダヤ人は、国連の分割決議を受け入れて「イスラエル建国宣言」を発表しました。

1−2 中東戦争

イスラエル建国をきっかけに、アラブ諸国とイスラエルは4度にわたって戦争を繰り広げました。

1−2−1 第一次中東戦争

こうしたユダヤ人のイスラエル建国に反発したアラブは、イスラエルに対して戦争を仕掛け、1948年に第一次中東戦争が勃発しました。

エジプトを中心としたアラブ連盟はイスラエルに敗北し、イスラエルはパレスチナを占拠しました。

パレスチナに住んでいたアラブ人は、約70万人がパレスチナ難民となって近隣のアラブ諸国に避難し、現在も経済的に貧しい生活を強いられています。

1−2−2 第二次中東戦争

1956年、エジプトのナセル大統領がスエズ運河を国有化する宣言をしたことに反発したイギリスとフランスが、イスラエルを支援する形でエジプトに攻撃をしたことから第二次中東戦争が勃発しました。

戦闘はイスラエル側の有利に進み、戦争自体はイスラエル軍の勝利となりました。

しかし、この攻撃に対する国際社会の非難が高まったことで、イスラエル・イギリス・フランスは、スエズ運河の国有化を認めることになりました。

第二次中東戦争から、エジプトのナセル大統領が中心となってアラブ諸国がイスラエルに対抗していきます。

第二次中東戦争は、スエズ危機スエズ戦争とも呼ばれています。

1−2−3 第三次中東戦争

1967年、エジプトがアカバ湾を封鎖したことを口実に、イスラエルはエジプトへ侵攻を開始し、第三次中東戦争が開戦しました。

第三次中東戦争は、わずか6日間でイスラエルの勝利となり、ガザ地区・シナイ半島・ゴラン高原などを押さえました。

エジプトが敗北したことで、英雄視されていたナセル大統領の権威は失われました。

この戦争で、イスラエルは領土を約4倍に拡大し、ヨルダンが支配していたエルサレムを占領しました。

先述したように、エルサレムはキリスト教・イスラム教・ユダヤ教にとっての聖地であるため、宗教的に非常に重要な土地であると言えます。

また、この戦争でもパレスチナ難民が多く発生し、約100万人が避難生活を余儀なくされました。

1−2−4 第四次中東戦争

ナセル大統領に続いてエジプト大統領となったサダトは、シリアと共に1973年にイスラエルに奇襲を仕掛け、第四次中東戦争が開戦しました。

奇襲攻撃だったため、序盤はエジプト側が勝利を収めましたが、イスラエル軍が反撃を開始すると、戦局は膠着しました。

アラブ諸国は、親イスラエル諸国に対して価格引き上げや禁輸措置を取るといった石油戦略を展開して、エジプト側を支援しました。

この中東戦争、石油戦略によって、世界で石油危機(オイルショック)が発生し、世界経済が混乱に陥りました。

石油危機についてまとめた記事は以下のリンクからご覧いただけます。

関連記事

Introduction:石油危機(オイルショック)とは? 石油危機(オイルショック)とは、 1970年代に2度起きた、原油供給の低下による価格高騰で、世界経済が混乱した出来事 です。 石油危機は、1970年代の世界経済に大打撃[…]

石油危機 オイルショック

事態を見かねたアメリカが仲介し、開戦から約1ヶ月で停戦となりました。

1−3 中東戦争後から現在まで

中東戦争後は、PLO(パレスチナ解放機構)を中心としてイスラエルとの戦闘が行われました。

1−3−1 PLOの台頭

4度にわたって行われた中東戦争は、イスラエルとエジプトを中心としたアラブ諸国の戦いでしたが、1970年代に入るとPLO(パレスチナ解放機構)が中心となってイスラエルと対立しました。

PLOは、1964年にイスラエルに支配されているパレスチナにいるアラブ人を解放するために作られた武装組織です。

ナセル大統領の後押しで結成され、アラファト議長を中心として、ゲリラ戦略を用いてイスラエルに対抗しました。

アラブ側の中心的戦力としてイスラエルに対抗したPLOでしたが、ヨルダンの王政を批判したことをきっかけに、PLOとヨルダンの戦いであるヨルダン内戦が勃発しました。

これは中東戦争と異なり、アラブ人同士の戦いです。

内戦の結果、PLOはヨルダン首相を暗殺しましたが、敗北となりレバノンへ撤退しました。

内戦後、PLOはイスラエルや親イスラエル諸国に対してテロ活動を行うなどして攻撃を継続しました。

レバノンに撤退したPLOでしたが、レバノン国内のキリスト教勢力によるPLOに対する反発が起き、1975年にレバノン内戦へと発展しました。

この内戦にシリアとイスラエルがレバノンを支援する形で介入し、大規模な紛争へと発展しました。

レバノン内戦は1990年まで続き、PLOはチュニジアまで退却することとなりました。

レバノン内戦は、各国の介入によって大規模になったため、「第五次中東戦争」と呼ばれることもあります。

そのような中、エジプトのサダト大統領がイスラエルに対する外交姿勢を和平路線へと転換しました。

1979年には、エジプト=イスラエル和平条約を締結するなど、アラブ諸国によるイスラエルに対する強硬姿勢の足並みが揃わなくなりました。

1−3―2 インティファーダとオスロ合意

1987年、イスラエルの占領下のパレスチナ人は、イスラエルによる占領に対して抗議のために、「インティファーダ」と呼ばれる民衆蜂起を開始しました。

パレスチナの民衆は、投石や不買運動、ストライキといった手段でイスラエルに抗議しました。

インティファーダによって多くのパレスチナ人が逮捕されましたが、国際的に注目され、イスラエルは中東和平を望む国際世論を無視できなくなっていきました。

インティファーダが起こった翌年の1988年、PLOのアラファトは、イスラエル国家を認めると同時に、パレスチナ国家の建国を宣言するという「二国家共存路線」へと転換しました。

アラファトは、イスラエルに有利な条件でパレスチナの領土をイスラエルとパレスチナで分割することで、中東和平を達成しようと試みました。

その結果、1993年にノルウェーの仲介によってイスラエルとPLOが初めて和平合意を行った「オスロ合意」が成立し、パレスチナ暫定自治協定が締結されました。

このように、1990年代は中東和平の気運が高まった時期でしたが、長くは続きませんでした。

1−3−3 和平破綻から現在

2000年代に入ると、イスラエル、パレスチナの両国で和平路線に反対する勢力が台頭しました。

そのような中、イスラエルのシャロンはイスラム教徒にとって神聖な場所である神殿の丘に立ち入るという挑発行為を行いました。

それに反発したパレスチナ人は第2次インティファーダを開始し、イスラエルもそれに対抗して攻撃を開始したことで、イスラエルとパレスチナは再び対立することになりました。

イスラエルとパレスチナが対立する中、中東でのイラク戦争や、アメリカでの同時多発テロの勃発で、中東情勢は混乱を極めました。

イラク戦争・同時多発テロについてまとめた記事は以下のリンクからご覧いただけます。

関連記事

Introduction:イラク戦争とは? イラク戦争(Iraq War)とは、 2003年、アメリカのブッシュ政権が大量破壊兵器を保有している可能性があったイラクに対して軍事侵攻を行った戦争 です。 8年にも及んだイラク戦争は[…]

イラク戦争
関連記事

Introduction:アメリカ同時多発テロとは? アメリカ同時多発テロ(September 11 attacks)とは、 2001年9月11日、イスラム過激組織であるアルカイダがアメリカで行った自爆テロ です。 9.11テロ[…]

アメリカ同時多発テロ

混乱の中、2003年にアメリカ・ロシア・EU・国連が中東和平の実現のために「中東和平構想行程表(ロードマップ)」を策定しました。

イスラエルのシャロン首相は、パレスチナに対する強行姿勢を転換し、2005年にガザ地区から軍とユダヤ人入植者を撤退させ、放棄しました。

その代わりに周囲を軍で包囲し、封鎖をすることで人・モノの移動を厳しく制限しました。

パレスチナでは、ハマスと呼ばれるイスラム原理主義組織が台頭し、和平路線に反対するようになりました。

2006年には、和平路線を取っていたシャロン首相が病気で倒れたことにより、イスラエル内は強硬派の勢力が増長していきました。

2008年、イスラエルはガザ地区に対して空爆を開始し、ハマスの幹部を含む多くのパレスチナ人を殺害しました。

その後も2009、2012、2014年と軍事侵攻を行い、ガザ地区の平和は達成されず、多くの人が犠牲となりました。

ガザ地区内はハマスが支配しており、イスラエルは封鎖を強化しています。

2017年には、トランプ大統領がエルサレムをイスラエルの首都と認め、アメリカ大使館をテルアビブからエルサレムへ移転し、国際的なニュースとなりました。

イスラエルとパレスチナの対立はいまだに終息しておらず、緊張状態が続いています。

以上のように、中東問題・パレスチナ問題はいまだに解決しておらず、国際情勢を不安定にしている要因であると言えます。

Part 2:おすすめの書籍

もっと「パレスチナ問題」を学びたいという人は、以下の書籍がおすすめです。

Part 3:まとめ

いかがでしたか?

「パレスチナ問題」をまとめると、

【パレスチナ問題】 まとめ
・背景:シオニズムの高揚・イギリスの三枚舌外交・イスラエル建国
・4度にわたる中東戦争
・和平と対立を繰り返す中東:イスラエルとパレスチナの対立

以上です。

Web大学 アカデミアは、他にも様々なジャンル・トピックを解説していますので、是非ご覧ください。

最後までご覧いただきありがとうございました。

広告
パレスチナ問題
最新情報をチェックしよう!
>