【冷戦】東西冷戦の背景や経過などわかりやすく解説

Introduction:冷戦とは?

冷戦(Cold War)とは、

アメリカを中心とした西側諸国の資本主義陣営とソ連を中心とした東側諸国の社会主義陣営に分かれて対立した構造

です。

アメリカとソ連が直接的に戦争を行なったわけではなく、国際関係が緊張関係で冷え切っていたため「冷戦(冷たい戦争)」と呼ばれています。

冷戦は戦後の国際関係における重要な国際秩序で、現代にも多くの影響を与えています。

本記事では、東西冷戦の内容をわかりやすく解説していきます。

【冷戦】 要点
・冷戦の開始:第二次世界大戦末期から覇権争い
・冷戦の激化:分断国家・核開発・NATOとWTO
・代理戦争:ベトナム戦争と朝鮮戦争
・緊張の最高潮:キューバ危機
・キューバ危機の反省から緊張緩和へ
・冷戦終結:計画経済の行き詰まりから体制の改革→東欧革命・ベルリンの壁崩壊・マルタ会談

Part 1:内容解説

冷戦は、第二次世界大戦が終結した1945年〜1989年まで続きました。

1−1 冷戦の始まり

冷戦は、第二次世界大戦の終結のために行われた会議から始まり、資本主義国家vs社会主義(共産主義)国家が対立していくことで始まります。

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第二次世界大戦

1−1−1 ヤルタ会談

冷戦の起源は、ヤルタ会談にあると言われています。

ヤルタ会談

ヤルタ会談

ヤルタ会談は、イギリス首相のチャーチル、アメリカ大統領のルーズベルト、ソ連首相スターリンが参加し、ヤルタ協定を結びました。

その中で連合国は、ドイツ領を米・英・ソ・仏で分割することを決定しました。

ヤルタ会談における戦後の分割協定から米ソの対立が明確になり、冷戦が始まったとされています。

第二次世界大戦終戦後、ヨーロッパ領土の再編や戦後処理を巡って、米ソの対立は激化していきます。

1−1―2 資本主義vs共産主義

終戦後の1946年、イギリスの前首相チャーチルが行なった、ソ連が東欧諸国を共産主義化する囲い込みを批判する「鉄のカーテン」演説やトルーマン大統領によるトルーマンドクトリンで発表された「封じ込め政策」などによって、自由主義陣営と共産主義陣営が明確に分かれていきました。

トルーマンは、共産主義勢力を抑え込めるために、「封じ込め政策」という基本戦略をトルーマンドクトリンの中で打ち出しました。

アメリカは、「封じ込め政策」の一環として「マーシャルプラン」を実施しました。

マーシャルプランとは、

戦争で疲弊したヨーロッパ西側諸国を経済的に援助し、共産主義勢力が東欧から波及しないようにした政策

です。

マーシャルプランによって、西欧諸国の戦後復興は進みましたが、冷戦が固定化したという側面もあります。

このようなアメリカの政策に対して、ソ連はコミンフォルム(共産党情報局)を結成し、共産主義陣営を結束させることで対抗しました。

このように戦後処理を通して、米ソがお互いの勢力を意識した政策を国際的に展開することで、冷戦が明確になりました。

1―2 冷戦の激化

西側vs東側という対立構造が明確になり、両陣営の政策によって冷戦は激化していきます。

1−2−1 分断国家

西側と東側に分かれて対立した冷戦ですが、それによって分断されてしまった国家がいくつかあります。

有名な分断国家として、ドイツ・朝鮮半島・ベトナムが挙げられます。

ドイツの戦後処理について、米・英・仏とソ連が対立したことをきっかけに、ソ連がベルリン封鎖を実施し、ドイツの東西分裂が確定しました。

朝鮮半島では、共産主義陣営に属する北側と自由主義陣営に属する南側に分かれました。

ベトナムでは、北側の社会主義国のベトナム社会主義共和国、南側の資本主義国の南ベトナム共和国に分断されました。

このように国家が分断されるなど、冷戦は激化していきます。

1−2−2 核開発

ビキニ環礁

ビキニ環礁

冷戦の軍事的な特徴として挙げられるのは、核開発です。

アメリカは第二次世界大戦の末期に原子爆弾を開発し、広島と長崎に投下しました。

第二次世界大戦の終戦直後は、アメリカが唯一の核保有国でしたが、ソ連はアメリカに対抗して核開発を開始しました。

1949年にソ連は原子爆弾の開発に成功し、アメリカとソ連が核兵器を保有することになりました。

お互いは核開発を重ね、より強力な核兵器を大量に開発することに注力しました。

1954年にアメリカは水素爆弾の開発に成功し、ビキニ環礁で核実験を行いました。

それに対抗したソ連は、1961年に「ツァーリボンバ」と呼ばれる強力な爆弾を開発するなど、徐々にエスカレートしていきました。

このように、お互いの戦力を上回ろうとして核開発を重ねたのが冷戦の時代と言えます。

1−2−3 北大西洋条約機構とワルシャワ条約機構

西側と東側に分かれた冷戦ですが、それぞれが集団的軍事機構を結成したことも特徴に挙げられます。

1949年、アメリカの封じ込め政策の一環として、共産主義に対抗するためにアメリカを中心とした西側12カ国が北大西洋条約機構(NATO)を結成しました。

NATOは集団的自衛権を主張し、各国の兵から編成されたNATO軍を結成しました。

西ドイツもNATO加盟し、ドイツの東西分裂が明確になったことでソ連は不快感を示しました。

このようなNATOに対し、1955年にソ連を中心とした東欧の8カ国はワルシャワ条約機構(WTO)を結成しました。

ワルシャワ条約機構は、NATOや西側諸国を仮想敵として定め、NATOと同様に集団的自衛権を行使して軍事同盟を組みました。

このように、冷戦の激化に伴って、西側・東側に分かれて集団的軍事機構が結成されました。

1−2−4 第三世界

冷戦によって、世界は西側・東側に分断されましたが、アジアやアフリカ、ラテンアメリカなどは、どちらにも属していませんでした。

西側陣営を第一世界、東側陣営を第二世界、アジア・アフリカ・ラテンアメリカ諸国を第三世界と呼びました。

冷戦で世界が二分したことによって、西側・東側に属さない発展途上国を総称して第三世界という概念が登場しました。

1−3 代理戦争

冷戦は、アメリカとソ連が直接戦争を行うことはありませんでしたが、それぞれの勢力の代理として朝鮮戦争、ベトナム戦争が勃発し、アメリカ・ソ連がそれを支援する代理戦争が起こりました。

1−3−1 朝鮮戦争

朝鮮戦争

朝鮮戦争

朝鮮戦争は、社会主義体制の北朝鮮と資本主義体制の韓国が南北に分かれて武力衝突しました。

朝鮮戦争は、1950年に北朝鮮が北緯38度線を超えて韓国に侵攻したことで開戦しました。

初めは、北朝鮮が南下して韓国に向けて侵攻しましたが、アメリカを中心とした国連軍が韓国に加勢したことで北緯38度線を超えて反撃しました。

韓国は北朝鮮の首都である平壌を陥落しましたが、中国が北朝鮮を支援したことで、北朝鮮が盛り返しました。

その結果、韓国軍は38度線まで後退し、板門店で朝鮮休戦協定を締結しました。

現在も休戦中であり、朝鮮戦争は終戦に至っておらず、朝鮮半島の分断はいまだに続いています。

アメリカ・ソ連の代理戦争として勃発した朝鮮戦争ですが、当時は核戦争になる危険性もあるなど、冷戦下でも緊張が走った戦争でした。

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朝鮮戦争

1−3−2 ベトナム戦争

ベトナム戦争

ベトナム戦争

ベトナム戦争とは、

南北に分断されたベトナムを統一することをめぐり、アメリカ軍が支援する南ベトナムと北ベトナムが支援する北ベトナム軍・南ベトナム解放戦線が行った戦争

です。

南北に分かれたベトナムが共産化することを恐れたアメリカは、南ベトナムを支援して、ベトナムの統一を図りました。

それに対して北ベトナム軍と南ベトナム解放勢力が協力し、アメリカ軍・南ベトナム軍と戦闘を行なったのがベトナム戦争です。

1964年に、北ベトナム軍がアメリカ軍の艦船を攻撃したことに対して北ベトナムへの空爆を開始した「トンキン湾事件」から事実上のベトナム戦争となり、アメリカ軍が恒常的に「北爆」を開始したことから本格的にベトナム戦争へと突入しました。

北ベトナムは、南ベトナム解放民族戦線(ベトコン)を結成し、ゲリラ戦術でアメリカ軍と戦いました。

アメリカ軍は、ゲリラ戦術を駆使するベトコンに対し、枯葉剤を散布して隠れ場所を一掃するランチハンド作戦を実施しました。

ランチハンド作戦

ランチハンド作戦

枯葉剤によって兵士や多くの民間人に健康被害が及ぶなど、非人道的な方法が世界から非難されました。

ベトナム戦争が深刻化したことや現地の悲惨な状況をメディアを通じて知ったアメリカ国民は、ベトナム反戦運動を起こし、反戦ムードが世界中に広がりました。

その後も長期化したベトナム戦争でしたが、1973年にベトナム和平協定(パリ和平協定)が締結され、アメリカ軍は撤退しました。

その後、ベトコンが南ベトナムを陥落させ、ベトナムが統一されました。

これは、アメリカ側の南ベトナムの敗北であり、社会主義陣営の北ベトナムの勝利となりました。

ベトナム戦争についてまとめた記事は以下のリンクからご覧いただけます。

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ベトナム戦争

1−4 キューバ危機:緊張が最高潮に

米軍が撮影したキューバ国内のソ連ミサイル基地

米軍が撮影したキューバ国内のソ連ミサイル基地

長く続いた冷戦でしたが、キューバ危機によって核戦争の危険性が最高潮になりました。

キューバは、1959年にカストロによるキューバ革命で社会主義国になりました。

キューバ革命についてまとめた記事は、以下のリンクからご覧いただけます。

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キューバ革命

社会主義体制に移行するために、キューバではアメリカ資本が追放され、アメリカとキューバの関係は悪化しました。

アメリカは、社会主義のキューバ革命政権を転覆するために画策しましたが、成功しませんでした。

そのようなアメリカに対して、キューバはソ連に支援を求め、ソ連のフルシチョフがキューバに核ミサイルの配備を開始しました。

キューバに核ミサイルが配備されると、アメリカ本土を攻撃される危険性があるため、アメリカは絶対に阻止する必要がありました。

アメリカは、ソ連がキューバにミサイル基地を建設しているのを発見すると、海上封鎖を行なってソ連の基地建設を妨害しました。

アメリカも核兵器の準備をし、キューバ海上の緊張は最高潮に達し、米ソによる核戦争の危機が訪れました。

アメリカのケネディ大統領とソ連のフルシチョフ首相は、アメリカがキューバから退却する代わりに、ソ連はミサイル基地を撤去するという合意を結んで、核戦争の危機は回避されました。

このようにキューバ危機は、冷戦で最も緊張が高まった瞬間であると言えます。

1−5 緊張緩和

キューバ危機で緊張が最高潮になった後、徐々に緊張が緩和していきました。

1−5−1 社会主義陣営の分裂

冷戦における緊張緩和が起きた一因として、社会主義陣営の分裂が挙げられます。

1950年代から、社会主義陣営の主要国である中国とソ連が、国際戦略や社会主義の在り方に関する意見の違いから対立しました。

1960〜70年代に中ソは国際紛争をするほど対立し、中国はアメリカに接近しました。

社会主義国が分裂したことで、東西の対立の緊張が徐々に緩和されました。

1−5−2 デタント(緊張緩和)

レーガンとゴルバチョフ

レーガンとゴルバチョフ

キューバ危機の反省から、米ソはデタントと呼ばれる緊張緩和政策にシフトしました。

ベトナム戦争や核開発によって軍事費が嵩み、経済を圧迫しました。

このような状況から、東西は対立を解消する動きへと転じ、デタントを開始しました。

ヨーロッパでは、武力不行使条約や国交正常化条約などが締結されました。

デタントは、軍事力や核ミサイルを制限する条約が多く締結されたり、安全保障協力会議が開催されるといった成果がありました。

1−6 新冷戦から冷戦終結へ

1970年代まで続いた緊張緩和でしたが、1980年代には再び緊張関係に戻りました。

1−6−1 新冷戦

軍事費・核開発の増大による経済の圧迫から進んだ緊張緩和でしたが、1979年にソ連がアフガニスタンに侵攻したことで、再び緊張が走りました。

ソ連が覇権を示すためにアフガニスタン侵攻を行なったことに対して、アメリカのレーガン政権も強行的な姿勢へと転換しました。

このように、緊張緩和が終了した1980年代を新冷戦と言います。

1−6−2 ペレストロイカとグラスノスチ

新冷戦で緊張が走った国際関係でしたが、1985年にゴルバチョフがソ連共産党の書記長に就任したことで、冷戦は終結に向かいます。

ゴルバチョフは、ペレストロイカ(立て直し)グラスノスチ(情報公開)という二本柱の改革を行いました。

ペレストロイカは、社会主義の計画経済の行き詰まりを打破するための改革として始まりましたが、複数候補者選挙制の導入といった政治的な改革まで及びました。

さらに、共産党による一党支配を終了させ、大統領制を導入しました。

グラスノスチは、社会主義体制下で制限されていた国内の問題や情勢といった情報を公開した改革を指します。

ソ連国民は、テレビを通じて様々な情報を知ることが可能になり、統制が厳しい社会主義体制を緩和したと言えます。

1−6−3 東欧革命から冷戦終結へ

ソ連の改革は、東欧の社会主義諸国にも影響を及ぼしました。

1989年、東欧の社会主義諸国では、議会制や市場経済の導入といった社会主義体制の転換が次々に起こりました。

この一連の改革を東欧革命と言います。

東欧各国では、複数政党制や議会選挙が認められました。

そして、1989年の11月に東ドイツ政府が国民の西ドイツへの出国を認めたことで、ベルリンの壁が崩壊しました。

東西冷戦の象徴でもあったベルリンの壁が崩壊し、分断国家のドイツが統一されたことで、冷戦の時代は終わりを告げました。

ベルリンの壁崩壊から1ヶ月後、アメリカのブッシュ大統領とソ連のゴルバチョフが、マルタ島でマルタ会談を行い、冷戦の終結を宣言したことで冷戦は終了しました。

マルタ会談

マルタ会談

Part 2:おすすめの書籍

もっと「冷戦」を学びたいという人は、以下の書籍がおすすめです。

Part 3:まとめ

いかがでしたか?

「冷戦」をまとめると、

【冷戦】 要点
・冷戦の開始:第二次世界大戦末期から覇権争い
・冷戦の激化:分断国家・核開発・NATOとWTO
・代理戦争:ベトナム戦争と朝鮮戦争
・緊張の最高潮:キューバ危機
・キューバ危機の反省から緊張緩和へ
・冷戦終結:計画経済の行き詰まりから体制の改革→東欧革命・ベルリンの壁崩壊・マルタ会談

以上です。

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最後までご覧いただきありがとうございました。

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